自分には絶対に死んでも、マネできない。
母国語ではない言語で書かれた文字が、恐ろしく詰まった文章のカタマリを読みこなす、
そういう読書ができるなんて、ぽーっとしてしまうほど、憧れる。
話すことも、聞くことも、理解することもできる???なんて???、すごい。
バイリンガルや、トリリは、ふつうのことで、べつに、どおってことないんだろうけれど。

自国以外の国に自在に、身を寄せることが出来る。
人生の選択肢が、大きく増える。
わたしは、今までの人生、語学に関しては(語学だけではないが)、怠けていて、サボっていて、これからも努力する気がないので、
ただただ、指をくわえて見ているだけに過ぎないが。

そんなことを書いても、これを読んで楽しい人は、わずかばかりであって、不快な人のほうが多いかも知れない。
つまり、共感よりも、反感を買うだろう。

欲しくなくても、したくなくても、身近に見たり、聞いたりすると、その行動を促される、無意識に眠っている欲求を掘り起こす、
潜在的欲求の喚起(広告や雑誌では、これでもか、と、それを刺激する)は、まあ、いいとしても、
それとは、また違う、潜在的コンプレックスの喚起に、つながる。
語学ができなくても、なんの問題もない、満足そのものの毎日を送っている人にとって、
呼び起こされたくもないコンプレックス、意識しなくてもいい、本来は弱点でもない弱点を自覚させられるなんて、とんでもない。

反感というのは、時として、こころに残り、無意識に反応してしまうものらしい。
わたしも、この年になって、上述したように、はじめて、そんな経験(=キライなことを大声で否定して、でも、影響を受ける)をした。
脳や目や耳に快いものばかりを自動チョイスして、受け入れ流すのもひとつだが、
逆のもの、反感を買うものに触れることは、脳の活性化につながるように思う。
ただし、瞬間的に、短時間。そして、いつでも、それから離脱できることが条件。
あまり長く触れていると、逆効果をもたらすかも知れない。

そして、キライなもの、コトは、無意識下のライバル心だったり、する。
こだわりの分野だったり、する。


柔軟なアタマを保つには、刺激は必要。
いつも、スタンバイ状態にあると、ちょっとしたことにでも、びんびん響く。
こころも、カラダも。

が、過度な刺激はよろしくない。
平常心も、揺れに揺れる。

なにごとも、ほどほどに。
そのさじ加減は、各々の人生の経験値に左右されることだろう。